映画『廃用身』を観てきました。
内容の賛否や、作品としての評価は他の方に任せるとして、僕が一番興味深く感じたのは、四肢への処置によって、認知面や性格、気持ちの軽さに変化が起きるという描写でした。
先に誤解のないように書いておくと、これは身体を切り捨てることを肯定する話ではありません。
僕が考えたいのは、
身体と脳のリソース配分
についてです。
劇中では、その変化について、四肢に流れていた血流が、切除によって脳へ回るようになったからではないか、というような解釈が示されていました。
ただ、僕は少し違う角度で見ていました。
それは、
脳のリソースが、麻痺した四肢に割かれなくなったからではないか?
という視点です。
これは、先日僕が眼鏡を作った時のブログにもつながります。
視覚入力がズレていると、本人は「見えている」と思っていても、脳はそのズレを無意識に補正し続けます。
つまり、見えているかどうかだけではなく、
見え方を処理するために、脳がどれだけ余計な仕事をしているか?
が重要になります。
同じように、麻痺した四肢や、痛み、不快感、重だるさ、動かしづらさが常にある場合、脳はその部位からの情報を処理し続けます。
動かない。
思い通りにならない。
不快な感覚がある。
脳が認識している身体の地図と、実際の身体感覚が一致しない。
これらは、脳にとってバックグラウンドで走り続ける処理負荷のようなものです。
そしてこれは、映画の中だけの話ではありません。
慢性的な肩こり。
原因不明のだるさ。
常に身体に力が入ってしまう緊張。
何度も同じ場所に痛みが戻る感覚。
これらもOCL的に見ると、単なる筋肉や関節の問題ではなく、脳が処理し続けている入力ノイズや、身体制御のエラーとして考えることができます。
OCLでは、身体を単なるパーツの集まりとしてではなく、
入力 → 中枢 → 出力
という神経制御システムとして捉えます。
つまり身体の不調とは、局所の問題だけではありません。
脳がどんな入力を受け取り、どう処理し、どんな出力を選んでいるか?
そのリソース配分の問題でもあります。
そう考えると、劇中の変化は「血流が脳へ行ったから」だけではなく、
脳が処理し続けていた膨大なノイズが減り、本来使えるリソースが解放された
という見方もできるのではないかと思いました。
もちろん、これは映画を観た僕なりの解釈であり、医学的に断定する話ではありません。
ただ、治療家として非常に考えさせられました。
身体には、絶対に守るべきものがあります。
同時に、過剰な緊張、痛みへの過敏反応、不要な防御反応、ズレた感覚入力のように、手放した方が身体全体の制御が良くなるものもあります。
OCLが目指しているのは、何かを切り捨てることではありません。
むしろ逆です。
不要なノイズを減らし、今ある身体のリソースを最大限に使える状態へ再設計すること。
「いらない身体を捨てる」のではなく、
「身体と脳にかかっている不要な負荷を減らす」。
この違いは、治療の哲学としてとても大きいと思います。
さらにこの映画は、介護や社会全体のリソースについても考えさせます。
介護の現場で負担を減らすことは、とても大切です。
現場の人を守るためにも、家族を守るためにも、本人の尊厳を守るためにも、負担を減らす工夫は必要です。
しかし、それがいつの間にか、
「効率が悪いものを切り捨てる」
「生産性で人間の価値を測る」
という発想に変わってしまうと、そこには大きな危うさがあります。
身体のリソース最適化と、
人間の価値を効率で判断することは、まったく別の話です。
治療家として考えるべきなのは、何を切り捨てるかではありません。
何を守るために、どの負担を減らすのか。
どのノイズを減らせば、その人がより楽に生きられるのか。
どの入力を整えれば、脳と身体が本来の力を取り戻せるのか。
そこだと思います。
僕にとって『廃用身』は、単なるショッキングな医療サスペンスではありませんでした。
身体とは何か?
脳のリソースとは何か?
不要なものを手放すとは何か?
そして、人間の価値をどこに置くのか?
治療家として、かなり深く考えさせられる作品でした。
OCLで僕が見ているのは、筋肉や関節だけではありません。
その身体を動かしている脳。
脳が処理している入力。
その人が抱えているノイズ。
そして、本来使えるはずのリソースです。
身体を変えるとは、単に形を変えることではない。
脳が身体をどう扱うかを変えること。
その意味で、この映画は、僕にとってとても面白い作品でした。


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